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(No36) 奈良国立博物館 公開講座 「重源の生涯とその事蹟」聴講記(特別展「大勧進 重源」)

 
  平成18年4月15日(土)から5月28日(日)まで、奈良国立博物館で御遠忌800年記念特別展「大勧進 重源」が開催されている。

 また、公開講座として5月20日(土)には、「重源の生涯とその事蹟」という講演があったので、それを聴きに行きがてら、観に行ったのであった。

 で、その聴講記。

 講師は、同館美術室長の岩田茂樹氏。定員は200名だというのにA3サイズ10Pもの資料をくださった。私ら素人には、その1割も理解できるか怪しいものだが、惜しまず伝えようとしてくださる姿勢にまず感動してしまう。

 


1.南都焼亡

「今回の展示は、重源上人御遠忌800年を記念して開催されるものです。
 こういうのは『初公開』のものがあると盛り上がって望ましいのですが、初公開こそありませんが東大寺をはじめとして、多大なご協力をいただいて、非常に大規模な展示をさせていただいています」

「平重衡の軍勢に火を放たれて、東大寺や興福寺は炎上しました。
 今回も展示していますが、当時の『山槐記』という文書や『玉葉』という文書にそのさまが描かれています」


 いただいた資料で『山槐記』治承四年(1180)十二月廿八日条を読むと官兵の放火で焼失したのが興福寺で金堂、講堂、東講堂、西講堂、南圓堂、北圓堂、御塔などと延々と続き、東大寺も大佛殿、講堂、食堂・・・と限りない。逆に、その焼失リストの後ろに「所残、興福寺内、小房二宇、東大寺内堂舎少々」とあるから、燃え残ったものはほとんどなかったと考えたほうが早いようだ。
 なお、『山槐記』は、内大臣中山忠親(1130〜95)の日記。

 また、『玉葉』治承四年十二月二十九日条で九条兼実(くじょうかねざね。1149〜1207)は、「七大寺ことごとく灰燼となったのは仏法王法の滅尽であり、およそ言語の及ぶところ、筆で記せるところではない」「大佛再造立は『何世何時哉』」と嘆いている。

 



 



2.重源の周辺

「重源の前半生については、同時代資料が残っていません。
 焼亡の翌年、大仏再興の責任者と任ぜられたのが藤原行隆という人物でした。
 しかし、大仏再建にはいろいろな問題がありました。
 まず、技術的には、彼が鋳物の技術者を呼んできたところ、『人力の及ぶところではない』、とても無理だと言われてしまったのです。

 ところが、その行隆のもとに重源と名乗る僧が訪ねてきて、東大寺のことを何度も夢に出てきた。どうか再興を手伝わせてくれというので、勧進上人ということになりました。重源が歴史上現われたのはこの時からなのですが、その時重源は60歳を超えていました」


 資料でいただいた『東大寺続要録』造仏篇という文書には、治承5年6月26日に造寺官に藤原朝臣行隆が任ぜられたとある。
 また、同書には養和元年(治承5年と同じ年)3月17日に行隆が鋳師十余人を連れ下向し、鋳師が「非人力之所及」と答えたとか、養和元年4月9日に重源と号する聖人が行隆のもとに来て「東大寺事度々感霊夢」と言ったとか書かれている。 

「先ほどの『作善集』には、彼が17歳の時に四国のあたりで修行したとあります。
 葛木(葛城山)、白山、立山といった地名が出てきますから山岳修行なども行っているようです。

 また、彼は村上源氏、頼朝などは清和源氏ですが、村上源氏と深い関係があったと言われています」


 図録に先生が同題の解説文を載せておられた。私は当日の資料に「村上源氏→円光院」とメモしたものの、これ何だっけ?と思っていた。図録によると「前半生の活動のなかで着目すべきは、村上源氏の一族との関わりである。仁平2年(1152)の文書に村上源氏の源雅俊の醍醐寺円光院の理趣三昧僧として名がみえるのが重源に関する最初の史料」とあった。

 また、「栢杜堂」(かやのもりどう)の所で「モロユキ」とだけメモしていたのだが、これも「『作善集』によると、彼は下醍醐栢杜堂とそこに安置された九体丈六仏を造立したというが、この堂宇も村上源氏の師行(もろゆき)の発願による」とある。

 





3.入唐三度聖人

「彼は、宋に三度渡ったと言われています。
 これは出展していますが、泉福寺の梵鐘、この鐘はもともと旧延寿院の鐘でした。
 この鐘の銘文に『勧進入唐三度聖人重源』とあります。

 なお、『唐』というのは、当時の宋のことで、ここでは唐が中国全般をさす言葉として用いられています。

 また、『玉葉』という文書にも同様の内容が述べられています。

 重源は、大仏再興にも宋の技術力を利用しましたし、宋文化の請来にも力を尽くしました」

 
ここでいう『玉葉』は、図録の解説によると、出展されていた第二十六 一帖の分と思われる。
 それによると、寿永2年(1183)正月24日「東大寺勧進聖人重源」は、招きに応じて九条兼実のもとにオ訪れた。その時、重源は「渡唐三ヶ度」の経験を語り、五台山巡礼は大金国が占領しているので果たせず、代わりに天台山、阿育王山を訪れ、破戒罪業の者は渡れぬとされた石橋を渡ったそうだ。

 そう思って図録の写真を見直すと、なるほどそれっぽい単語が散見される。

 

 


4.大仏再生

「重源は、日本の鋳物技術者が不可能といった問題を宋の陳和卿(ちんなけい)という人物にまかせることで解決しました。
 陳和卿は宋の部下も連れてきました。日本の鋳物師草部是助という人物などもいたようです。

 鋳造の時の様子が、先ほどの『続要録』にも出ています。大仏の後ろに大きな炉を三口もすえ、大量に銅を熔かすと雷のような大音響がして人々を驚かせたとあります」

 先ほどの『玉葉』寿永3年1月5日条のところでは、重源が宋の鋳物師の中に河内國の職人を加えようとしたら、宋人が「不快之色」をみせたとある。

「さて、大仏はどのように造ったのでしょう。
 『玉葉』には、行隆が兼実を土で型をつくると言ったような記述があります。いわゆる削り中子とか鋳カラクリといった手法だったのでしょうか。

 また、『作善集』に『額観寺奉安置大佛形佛(だいぶつのかたほとけ)半丈六』という記述がありますので、1m30cmほどの大仏の原形となる仏像を造ったのでは?とも思われます。

 大仏の光背を造ったのは院尊という人物ですが、彼がその形を造ったのでは?という説も有力ですし、慶派という説もあります。また、鋳造を任された陳和卿ではないかという説もあります。

 変わったところでは、炎上で大仏の首が落ちたとはあるが熔けたとは書いていないので、残っていた頭部を再利用したのではないか、という説もあります」


 仏師三派系図という資料もいただいた。仏師定朝覚助長勢に分かれ、長勢から「円派」が形成される。一方、覚助は院助頼助に分かれ、院助から「院派」が形成される。院尊は院派の一人。一方、頼助は奈良仏師という流れとなり、その中で康慶が「慶派」を形成していくという流れである。

 また、私は上記のように行隆が兼実に話したように思っていたが、図録の解説によれば、小槻隆職(おづきのたかもと)が兼実に、大仏の頭部は土で形を造る予定であることと、費用は寄進によるという重源の方針を伝えたとある。
 そう思って資料を読み直すと、『玉葉』養和2年2月20日条に「大夫史隆職来〜東大寺大仏御首事、以土可造形云々、用途大略以智識物成寄之由、重源聖人令申云々」とあった。
 また、『東大寺続要録』造仏篇に「造佛長官藤(原)行隆」に並んで「次官小槻隆職」という名前が見えた。

 

 

 



5.巨大造像群

 先生にいただいた資料から、造仏関係を抜き出してみる。

『東大寺続要録』造仏篇より

光中化佛 半丈六 大仏師院尊

建久5年12月26日 南中門二天 を造り始める。
東方 多聞天 大仏師扶慶 二丈三尺
西方 持國天 大仏師定覚 二丈三尺

建久8年6月18日 左右脇士(脇侍)観音菩薩、虚空蔵菩薩を造り始める。
如意輪観音 坐像 大仏師定覚、丹波講師快慶 各半身を作り、後に一体に合わせる。
虚空蔵菩薩 坐像 大仏師康慶、同運慶 父子が各半身を作り、一体に合わせる。

建久6年8月 四天王像を造り始める。
東方天 持國 大仏師運慶
南方天 増長 大仏師康慶
北方天 多聞 大仏師定覚
西方天 広目 大仏師快慶

建久6年6月8日より12月下旬 六丈脇士二体、四天王像四体、計六体悉くできる。

『東大寺造立供養記』
建久6年正月5日中門を建てる。同年二天像を造る。
東 多聞天 快慶
西 持國天 定覚

同(建久8年)6月18日
観音 大仏師定覚、丹波講師快慶 各半身を造り、後にその体を合わせる。
虚空蔵 大仏師康慶、同運慶 父子

同年(建久8年)8月四天像を造り始める。
東方天 大仏師運慶
南方天 康慶
北方天 定覚
西方天 快慶

建仁3年11月30日脇士観音 虚空蔵並びに四天王像、中門南大門諸天供養。

建久7年 中門石獅子、堂内石脇士、四天像を宋人字六郎等四人が造る。

『明月記』建久7年6月13日条
東大寺上人が来て、大仏殿四丈の四天像の本様(ひな形)である四尺のもの(いわば1/10モデル)を見せたとの記事がある。

『東大寺別当次第』
南大門の二王を建仁3年7月24日に運慶、備中法橋、アン阿弥陀仏(快慶)、越後法橋の4人で造り始め、10月3日に開眼を完了した。

東大寺南大門金剛力士像(阿形像)金剛杵墨書
建仁3年7月24日之を始める 大仏師運慶 アン阿弥陀仏

醍醐寺・大仏殿図
左脇侍:如意輪観音
法橋定覚、丹波講師快慶

右脇侍:虚空蔵
大仏師法眼康慶 法眼運慶 父子

持国天
東方天 法眼運慶 建久6年8月
面向西 身色青色 踏赤色一鬼 右手(上)三古戟を執る 左手(下)腰着を押す

増長天
南方天 康慶法眼 建久6年8月
面向東 遍身赤色 踏黒色一鬼 右手腰を押す 左手三戟のほこをつく

広目天
西方天 快慶法眼 建久6年8月
面向南 身肉色 踏赤色一鬼 右手筆を執る 左手巻経を持つ

多聞天
北方天 法橋定覚 建久6年8月
面向南 身黒色 踏青色一鬼 右手(上)塔を居く 左手(下)三戟を執る

「注目すべきは大きな仏像を、二人の仏師が半分ずつ造って、後にそれを一体に合わせたという点です。
 そりゃあ、一人で造るより二人で分業した方が早いには決まっていますが、ばらばらに造って、組み合わせるとずれていた・・・というのでは話になりません。こうしたことが可能になった背景には技術的水準が安定し、レベルが共有できたということです」


 確かに2ヶ月ほどで南大門の仁王(金剛力士)像が完成したのはすごい。柴門ふみ氏が『ぶつぞう入門』
「運慶と快慶とその弟子十数名を引き率れてゆけば、サグラダファミリアなんてあっという間に完成してしまうのではないか」と書いているのももっともと思う。

「ご存知のとおり、聖武天皇が建立した大仏殿が平氏によって焼き討ちを受け、重源が再建しました。しかし、その大仏は、後に松永久秀によって再び炎上し、江戸時代に再興されたのです。
 それでは、私たちには重源の再興した大仏などがどんなものであったか想像もできないのでしょうか。その手がかりが醍醐寺の大仏殿図で、当時の仏像の配置などが記録に残されているのです」


 その記述については上記をご参照いただきたい。

 醍醐寺・大仏殿図の中で四天王の色についても指定がある。多聞天は肌が「黒色」とあるが、一般に真っ黒な仏像は造られなかったそうだ。それで、黒色と指定があっても、実際は青黒色くらいの場合が一般的。
 そうなると、青黒色の多聞天と区別がつきにくいため、「身体の色は青色」と指定のある持國天の肌色を「青色」でなく「緑色」とした例が多いらしい。

 また、広目天の身色が「肉色」というのは、いわゆる「肌色」のことで、白色が使われることもあるようである。

「東大寺南大門の金剛力士像は、慶派独特のもので、他にない多くの特徴を持っています。
 東大寺の金剛力士像のポーズ、持物の典拠と考えられるのが清涼寺に伝わる変相図です。
 通常は向かって右が阿形、左が吽形ですが、清涼寺変相図の力士は逆に向かって右が吽となっています。これは、南大門の力士と共通しています。
 ただ、清涼寺の力士と南大門の力士も違う点があります。
 清涼寺の力士は、いずれも片足(中尊側の足)の先を上げていますが、南大門の力士は、向かって左(阿形)のみが足先を上げています。

 また、南大門の力士は、正面を向かず、お互いに向き合っています」
 

 なお、上記資料の正式名称は 清涼寺釈迦如来像納入版本霊山変相図 という。

 また、『図録』解説によれば、備中法橋・越後法橋が定覚、湛慶に該当する。また、阿形像が運慶・快慶、吽形像が定覚・湛慶の合作と考えるのが妥当とある。 

 



6.別所の阿弥陀如来像


「別所とは、いわば出張所のようなものです。

 『作善集』で、阿弥陀如来関係の項目に○印、舎利(五輪塔)関係に△印を付けました。

 上醍醐寺の横に下『酉 酉 』とありますが、これは『醍醐』の略字です。

 栢杜堂という字は『かやのもりどう』と読みます。村上源氏にゆかりがあります。その下の『九体』というのは九体阿弥陀のことで、昔は流行したようですが、現存しているのは浄瑠璃寺のものだけです」

 重源が『作善集』に記している別所は、東大寺別所、高野新別所、(摂津國)渡邊別所、播磨別所、備中別所、周防別所、伊賀別所の七つである。
 備前は別所と書いてこそいないが、「備前國」として、別所と同様な記載がなされている。

 

 




7.むすび

  あと、先生は「これはまだ説として固まっていないんだけど・・・・・」とおっしゃいつつ、四天王の顔の向き(というか、像の置かれ方)が、像によりやや異なっていたのではないかということを話された。しかし、メモが不十分で、うまく説明できない。

 予定時間は超過していたのだが、それから、いくつかのスライドを上映していただいた。

 なお、いつも通り録音等していないので、先生の口調は、私の記憶で適当に補ったものである。先生は「重源」と呼び捨てにせず、ひょっとすると、ずっと重源「上人」と呼んでおられたかもしれない。しかし、記憶がはっきりしないので、「重源」と表記させていただいた。

 大変内容豊富な講演であり、感謝している。

 

 



 どうもお疲れ様でした。